2006年02月12日

最近読んだ本

「東海道戦争」
筒井康隆の処女作である「東海道戦争」を読んだ。表題作を含む短編集で、テンポよく場面が転換し、話の進んでいく様は過去に読んだ筒井作品と同じであったが、登場人物の心に対する描写が多いところが今までに読んだものと違うと思った。
そのおかげでいわゆる「感動」というものをしてしまった。決して単純なハッピーエンドに対するカタルシスとしての感動ではなく、心揺さぶられるという意味で。

「打つ―掛布雅之の野球花伝書」
この本を初めて読んだのは確か高校生の時で、僕は野球部ではなく柔道部にいた。
でも野球は大好きだったため昼休みに毎日のように遊びでやっていたのだが、その時に読んで感動した本である。
大学に入って野球のサークルに入り、練習や試合をちゃんとやるようになってからも、この本はものすごく役に立った。
もはやサークルは引退してしまい、これからどれだけ野球ができるかはわからないのだが、この本を読むとものすごく野球をしたくなる。
この本は著者と掛布氏の対談形式になっているのだが、掛布氏の発言は非常にわかりやすい。感覚的なものを説明しつつアマチュアにも想像ができるような言葉になっている。僕はサークルの中では割と打つのは得意なほうであったが、かなりの部分がこの本のおかげだと思う。


東海道戦争
筒井康隆






打つ―掛布雅之の野球花伝書

矢島 裕紀彦 (著)
posted by 石田マギー at 13:47| Comment(0) | TrackBack(0) | アイドル気取りで本を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月17日

続・活字は相対化できるが

生活に必要な能力、社会に必要とされる能力を習得する上での効率を、活字と活字以外で相対化すべきだというわけではないです。日本語を習得する上で、日本語のみで構成されたメディアが適しているのは当然のことです。
 あれら読書の極端な推奨が、子供らが日本語を効率的に学ぶことを目指して行なわれているものだとしても偏重しすぎ、つまり活字以外のものの教育的効果を抹殺し、活字以外の娯楽を排他的に禁止する行為自体が、活字の極端な推奨となって親たちの間に浸透、流行し、相対化されていないと思います。
Posted by Revin at 2005年11月14日 23:55


というコメントを頂いたのでそれについて考える。

とりあえず、「活字の極端な推奨」というのは、それぞれの親のバランス感覚によるものではないかと思う。
うちの親はゲームも漫画も「禁止」しなかった。でもこれはうちだけではないはずである。
ポケモンは1億本以上売れているらしい。その中にはかなりの割合で子供が入っていることだろう。ポケモンってどれくらい続編が出てるか知らないけど、仮に10作品出てるとして、単純計算で1作品につき1000万本が売れてるわけだ。
9割を大人が買っていたとしても100万人くらいの子供がポケモンやってる。
小学校卒業までの人間を「子供」として、3歳からゲームを始めるとしたら、1学年につき10万人がポケモン持ってる。だいたい12人に一人。ポケモンだけで。12人のうちにはゲームに興味のない子もいるだろう。
「禁止」というほどの扱いは浸透、流行と呼べるほどのものになってはいないのではないだろうか。
つまり、「どの程度制限をかけるか」のレベルの違いである。
子供にゲームを与えると、無制限にやっている事がよくある。
そういうときに、「本を読め」というのである。社会で生きていく能力を養うのに、一番効果的な(かつ汎用性がある)のは活字だから。

そしてゲームや漫画の教育的効果についても、抹殺はされていない。
「教育的効果がある」と認められている、というか露骨に「教育のために作った」漫画やゲームは親にも受け入れられている(と思う。確証なし)。「漫画で覚える日本の歴史」とか。

ただし、活字については「教育的効果」に対する吟味がゆるい、つまりそのフィルターがあまり「狭き門」にはなっていないのは事実だろう。
これは下の記事でも書いたように、「日本語能力の向上」に対して「大外れ」が少ないと考えられているからだと思う。
親が活字だけを推奨するのは、「一番いい」からであって、「活字以外を認めない」からではない気がする。

子供って放って置いたら大体はゲームしたり漫画読んでばっかりいる。それは明らかに「つぶしの効く」やり方ではないし、やってるゲームや読んでる漫画の内容によっては、「社会で役に立たない」能力しか得られない。

逆に本ばっかり読んでる子供がいても、それをさしおいて無理やりやらせたり読ませたりするほどの漫画やゲームは特にない、というのが実情ではなかろうか。
社会生活に必須の能力で、ゲームか漫画でしか身に付かないものって今のところなさそうである。
ゲームをやったら、漫画を読んだら、全く何も身に付かず、どんどんバカになるかというと、そうとは限らない。
しかし全般的な傾向を見た場合、明らかに読書のほうが教育的効果が高い。そのために親は子供に読書を薦める。

しかし、もう一度書くが、排他的に他のメディアを禁止しているわけではない。
教育に一番向くのが読書であるから、真っ先に読書を薦め、それ以外の娯楽にどれくらいの時間を割り振れるかを計算しているはずである。

活字は絶対化されているのではなく「相対化された上で一番」なのである。
相対化できていない親も中にはいるのだろうが、それは一般的ではない。
posted by 石田マギー at 04:37| Comment(3) | TrackBack(1) | アイドル気取りで本を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月12日

活字は相対化できるが

友人のサイトを見ていたらこういう文章が載っていた。
活字の相対化

活字は行為の上では他の娯楽と変わらないように見える。しかし多くの親は子供に「本を読め」という。
別に本に限らずテレビでもラジオでもゲームでもマンガでも、知識を得るためのソースはいくらでもあるわけだ。ではなぜ本なのか。

それは、将来子供がどの分野に出て行っても、日本語(とりあえずここは日本なのでそう書いておく)に強いほうが得をする事が圧倒的に多いからだと思う。
たとえばゲームがものすごく上手くなったとしても、現状ゲームのプロというのは(おそらく)存在しない。

ゲームによって空間を把握する能力や、謎を解くための思考力などは養われるかもしれない。
しかしこれらの能力が高くて、日本語が不得意であったとしたら、その人は「扱いづらい人」だろう。社会的に上手くやっていけない可能性すらある。
逆にそれらの能力が低くても、日本語が得意であれば、ある程度は「やっていけ」る。
空間把握力や謎解きの能力を求めない場はいくらでもあるからだ。
しかし日本語能力が必要とされない場はあまりにも限られている。他人と会話や文章の交換をしないで商売をできる人間は少ないからだ。

日本語なんて母国語である以上は誰でもしゃべれるわけだが、その中でもやはり得意不得意はあると思う。
例えば語彙の豊富さ。何も難しい言葉をたくさん知っていればいいというわけではない。
誰もが知っている平易でわかり易い言葉を臨機応変に出せることのほうが重要だろう。
語彙が貧困な人は、知っている言葉、つまり「使ってもいい言葉」の中のごく一部しか使えていない。
極端な話、単語の知識量が同じだったときに、どれだけ幅広く使えるかという事だと思う。語彙力。

で、日本語力の定義をだらだら書いててもしょうがないので次。
これらを身に着けるには、ゲームもテレビもラジオも「アリ」だ。
しかし一番効率がいいのはやはり本ではないだろうか。
それは、活字になったものは、すべてが言語化されているからである。

あらゆる事象を言葉で表現する。それはテレビもゲームもラジオもできない事である。
画面に絵が映らないゲームがあった気がするが、音は鳴るだろう。音や映像を表現する言葉をすべて記述しているのは本だけである。まあ最近はインターネットという分野もあるが、少なくとも何年か前までは本だけであった。
音も出ず、画面にも何も映らず、ただ文章だけが表示されるゲームやテレビ番組があれば読書と同じくらい子供に勧めてもいいと思うが、残念ながら今のところはなさそうである。

結局読書以上に「言葉に強くなれる」ものはないのではないだろうか。
しかも面白い本を読めば、娯楽を享受しているうちに日本語に強くなれる。
活字は絶対化されているのではなく、「相対化された上で一番」なのである。
posted by 石田マギー at 11:35| Comment(8) | TrackBack(1) | アイドル気取りで本を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月30日

こりゃすげい

サンプリングの行き帰りの電車の中で、筒井康隆の「残像に口紅を」という本を読んだ。
一章に一音ずつ使える文字が減っていくという凄まじい実験小説。

最後はある程度予想できてしまったが、過程がすごかった。
文字が欠けていることを感じさせない文章。
語彙の多様さのなせる業であろう。もちろん僕のような素人でも読めるわけだから、極端に難しい言葉を使っているわけではない。
しかしやはり多様な表現というのはそう簡単には出てこないはずだ。

プロの文章力を僕がほめたところでおこがましいだけなのでこの辺にしておくが、非常に面白かった。特に終盤。
posted by 石田マギー at 06:05| Comment(2) | TrackBack(3) | アイドル気取りで本を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月14日

ルポとは

辺見庸「もの食う人びと」という本を読んだ。一週間ぐらい前だけど。
筆者が様々な国を回り、主に満足な食事を得られない地域や、特殊な事情のある人びとの食事を食べ、その地域や人々と接する事で目にした光景を綴っていく。

はっきり言って文学的すぎ。むりやり感動させたり悲しみの琴線に触れようとしているのが見え見えであった。文学的というか装飾的な表現をしすぎだと思った。

そんなもの淡々と記録しておけば人それぞれ感じるところがあるものじゃないのか。
何も感じなければそれはそれでその人の感性だし。

あからさまに受け取り方を限定されているような気がしてつまらない部分が多かった。ただし内戦地区での餓死目前の人々や囚人の食事など、シチュエーション自体は興味深い。
内容自体は面白いんだけど、何でそんなに感動させようとするのかわからない。そういう文が出てくるたびにしらけた気分になった。

ルポルタージュって言葉が裏表紙に使われていたので調べてみた

まあ記録文学という意味では正解か。文学って受け手にどう読まれたくて書いてるかを見透かされた時点で終わりな気もするけど。文学とは、って語り自体できるような人間でもないですが。
posted by 石田マギー at 02:53| Comment(0) | TrackBack(0) | アイドル気取りで本を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月19日

遠藤周作

遠藤周作「海と毒薬」を読んだ。いや金曜のうちに読み終わってたんだけど。

ドロドロしている。しかしこれに出てくる戸田(だったか)という医師の境遇がよく似ていて面白い。まあ境遇と行ってもこの戸田が僕の家に最も近い小学校に通い(僕は校区の関係で別の小学校だった)、僕と同じ中学高校に進学したというだけだが。遠藤周作もこの戸田の小学校に転入していたようだ。そして僕や戸田と同じ中学高校(当時は中学校)に同じように進学している。

戸田は遠藤周作の幼少期をモデルに書かれたものかもしれない。こんな事はもうとっくに誰かが論じてるだろうけど。

で、これもオチはない。しかしこれでいいのかもしれない。特に不満はなかった。
というか何でもかんでもわかりやすい結末というか着地点を求めるのは幼稚な読み方かもしれない。特にこの本と二葉亭四迷は登場人物の内面に主眼が置かれている気がする。
この「海と毒薬」は大きな事件が全体に横たわっているのだが、それは登場人物のその前後の人生、そして精神についての描写の題材なのだろう。事件があったという、小説内の事実には大した意味はないのかもしれない。
posted by 石田マギー at 03:05| Comment(2) | TrackBack(1) | アイドル気取りで本を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月18日

Z-

乙一の「夏と花火と私の死体」という本を読んだ。
最初なんだか空虚な文章が多く若干ダレなくもなかったが、読み進めるうちにのめりこんだ。面白い。
でもオチは無茶だった。まあいいけど。伏線が薄すぎやしないかい。と思っただけだが自信がなくなってきた。ちゃんと読めてないだけかも。まあよい。それにしてもオチに対する文句ばっかり言ってる気がする。
これは中編というのか、文庫にはもう一つ話が入ってたのだが、そっちのほうが面白かった。
posted by 石田マギー at 15:39| Comment(0) | TrackBack(0) | アイドル気取りで本を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月15日

くたばってしまえ

二葉亭四迷の「浮雲」を読んだ。漢字やら昔の言葉が多くて最初とっつきにくいかと思ったが読み始めると面白く、どんどん進んですぐ読み終わった。といっても2,3日かかってるわけだが。基本的に電車の中でしか読まないので。

しかしオチがなんとも適当だ。ネタバレだけど。
昔の日本文学って、何ともはっきりしない結末というか、その後はご想像にお任せする感じのオチが多いのは気のせいか。
何か残りのページが少ないのに大して話が進展しなくて嫌な予感はしていたがああやっぱり、という感じ。
posted by 石田マギー at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | アイドル気取りで本を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月05日

エディプスの恋人

読み終わった。最初から当然のように「七瀬ふたたび」でのあのわけのわからない結末を無視したような書き出し。
かと思ったら後半一気にあの強引な終わりとこの本の不可解な書き出しがフォローされている。

でも結局七瀬さんはとても不憫な目にあって終わるのでした。「七瀬ふたたび」が続編ありきだし、こっちは前編ありき。上下巻にしてないので順番を知らずに読むとわけわからなくなりそう。
posted by 石田マギー at 13:38| Comment(0) | TrackBack(0) | アイドル気取りで本を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月03日

七瀬ふたたび

筒井康隆の「家族八景」の続編「七瀬ふたたび」を読んだ。

318ページのうち、300ページくらいまでは非常に楽しく読み進められた。本当に面白い。
しかし残りの20ページはひどい。それまでに大風呂敷を広げるだけ広げて、出てきたものを拾い集めることなく全部燃やしてしまった感じだ。

おそらく少年ジャンプ的な意味なき壮大さを避けたのだと思うが、最後の20ページはもう書くのが面倒になって無理やり終わらせたという印象しかない。

少年ジャンプ的壮大さというとつまり、むやみやたらと話を引き伸ばす話のスケールの巨大化である。

以下少々ネタバレなのでそれでもいい方だけどうぞ。続きを読む
posted by 石田マギー at 03:14| Comment(0) | TrackBack(0) | アイドル気取りで本を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月01日

筒井康隆

前々から筒井康隆という作家に興味を持っており、このあいだ初めて「最後の喫煙者」という本を買った。短編集である。
面白かった。で、こんなふざけた話ばっか書いてるのかと思いきや、ちゃんとした長編も書いている。

長いのでは「家族八景」という本を最初に読んだのだが、やばい。面白すぎる。何これ。
さらにあとがきを読んで衝撃を受けた。1972年ぐらいの本だ。30年以上前。

まったく最近の本だと思って違和感がなかった。少なくとも90年代ぐらいに書かれた本だと思っていた。30年前から劣化しない面白さ。すごい。

ディープパープルのライブインジャパンも1972年のアルバムだが、今なお風化しない輝きがある。しかし一聴すれば昔のアルバムだというのはすぐわかる。
でも筒井康隆のはわからなかった。行き帰りの電車の中で時間を忘れる。学校や家の最寄り駅に着くとがっかりする。これほど面白いと思った本はここ半年以上なかった。もっとかも。
posted by 石田マギー at 21:54| Comment(2) | TrackBack(0) | アイドル気取りで本を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月17日

ステキ本屋

うちの最寄の繁華街である下北沢に、ビレッジ・バンガードというステキな本屋がある。
本屋といっても変な雑貨やCDなどもたくさん売っており楽しいことこの上ない。

で、今日は国木田独歩の「武蔵野」とオリヴァー・サックスの「火星の人類学者」という本を買ってきた。
何か他にいろいろなものを衝動買いしそうになったが耐え切った。鉄の意志で。
posted by 石田マギー at 01:16| Comment(0) | TrackBack(0) | アイドル気取りで本を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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